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織田信長・豊臣秀吉の時代は、南蛮のウールや木綿の衣類、編物靴下が日本に伝わってきました。しかし、武士や貴族以外の庶民は、依然として麻の衣服をまとい、足もとは裸足でした。
江戸時代に入ると、西洋の風をたくさん取り入れた南蛮文化とは対照的に、鎖国によって和風に様変わりし、いわゆる町人・庶民の文化が花開きました。
今日、私たちの身近にある「木綿」は、江戸時代に普及し、庶民の足もとにも「木綿足袋」や「脚絆(きゃはん)」が登場してくるのです。
■木綿文化の始まり
木綿は、延暦18年(799年)に三河に漂着した外国船の崑崙人(こんろんじん・インド人?)が伝えたとされていますが、この時は、伝来した木綿の種子をまいてもうまく育たなかったようです。
鎌倉時代、室町時代には、国産の木綿がなく、全て舶来物の木綿製品が輸入されていました。木綿の布はとても貴重な品であったと言います。特に、中国では、インドより後漢時代に木綿が伝来したそうですが、実際の栽培が始まったのは唐時代でした。宋・元・明時代になると、兵士の衣服用や貨幣の替わりに木綿が用いられるようになりましたので、大量に中国木綿を輸入することは困難でした。こうして、国産木綿が求められるようになってきたのです。
天文20年(1551年)には、早くも「日本木綿」の言葉が使われ始めていますので木綿の国産化が進んでいたことがうかがえます。また、鎖国政策によって外国産の木綿生地が入ってこなくなったこともあり、三河木綿や伊勢木綿・松坂木綿(松阪の誤りではありません、江戸時代には松坂の漢字を当てていました)だけでなく、河内や大和も木綿の産地になっていきました。木綿は衣服用だけでなく、船の帆布や幕布にも使われました。さらには、貨幣経済の進展とともに、すぐにお金になる換金作物として木綿は市場経済に組み込まれていきました。
■「木綿足袋」の登場
木綿が流通するようになると、皮革で作られていた足袋も木綿で作るようになりました。特に、江戸の大火で火消し用の皮羽織の需要が高まり、材料である皮革が不足したこともあって、代用品として木綿の足袋が登場しました。また、江戸幕府は庶民の絹製品使用を固く禁じたため、絹の代用としても木綿が使われるようになりました。
■旅と脚絆(きゃはん)の素敵な関係
江戸時代になって平和な世の中になると庶民の楽しみとしての旅行が盛んになってきます。各地の神社仏閣への参拝旅行は江戸幕府も許していました。特に、伊勢神宮への参拝は爆発的に増加していきます。また、江戸時代になると女性の旅行も始まりました。こうした旅装束の一部として旅行着である手甲と脚絆が定着してきます。脚絆は織物を縫製して脚部にひもで結ぶもので、衣類が足の動きを妨げないようにするためのものです。仕事着にも使われていましたが、長旅にも使われるようになりました。
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