くつしたモノガタリ
想像してみてください。
靴下売り場には、実に多くの靴下が並んでいます。 それぞれの靴下には色々な個性があります。見た目は大きく変化していないように思える靴下ですが、昔から今の形や機能が備わっていた訳ではありません。これから始まる、靴下の歴史を覗いてみませんか?

- 第5回 -
 
江戸の町人文化の終わり

武士政権の江戸幕府が崩壊すると、和風の町人文化も衰退していきます。
同時に、洋装文化が日本に入ってきますが、江戸時代に登場した木綿足袋は、明治時代にミシンが導入されたことにより、生産量が急激に増え、ようやく一般庶民に普及し始めました。そのため、一般庶民の間まで洋装文化が浸透するにはまだまだ時間がかかりました。

身分と足もと

貴族は襪(しとうず)、武士は足袋、庶民は裸足というように、衣服だけではなく、足もとでも身分を表していました。
つまり、足もとを見ればどんな身分の人なのかすぐにわかる、ということです。
足に身につけるものまで身分によって区別されていた時代も、明治時代には「士農工商」の身分制度が廃止され、徐々に消えていきました。

衣服を見れば文化がわかる

今日までのファッションの移り変わりは、時代と共に「ぴったり系」と「ゆったり系」の入れ替わりで変化しています。
奈良時代までは、大陸文化の影響を受けて貴族や役人はズボンや靴、靴下を履いていました。いわゆる「ぴったり系」ファッションです。そして部屋には机と椅子もありました。私たちと変わらない生活様式ですね。
平安時代は、国風文化の影響を受けて、現在の着物のように、袖などがゆったりとした衣服を好むようになりました。これがいわゆる「ゆったり系」です。そして、高床式の住居に裸足で生活するようになります。
戦国時代から安土桃山時代にかけては、南蛮文化の影響を受けて「ぴったり系」の洋装が定着しかけましたが、江戸時代に入ると鎖国により、人々の服装は「ゆったり系」の和装に元通り。
幕末になると、外国の影響を受け、活動的な「ぴったり系」の洋装の軍服や衣服が導入されるようになりました。

外国文化は「ぴったり系」が多く、和風文化になると「ゆったり系」が多いなんて、興味深いですね。

 

「編物靴下」本格デビュー

江戸時代も末期になると、黒船襲来などの外国の圧力によって幕府も西洋式の軍事制度を取り入れるようになりました。いわゆる、洋式歩兵の出現です。服装も、西洋式の軍服を着て、靴と靴下を履くようになりました。こうして、南蛮文化によってもたらされた編物靴下が幕末の日本に再び登場してくるのです。

編物靴下の生産は貧乏武士のアルバイト

幕末になると、お米を経済基盤とする武士の生活は厳しさを増し、時代劇でよく見かける「傘貼り」などのアルバイトを行うようになりました。編物靴下も洋式歩兵の軍服としての需要が高まり、こうした編物靴下の生産は、武士の貴重な現金収入となっていました。

舞踏会には靴下が条件!?

明治初期に、日本は文化面でも欧米に追いつこうと、鹿鳴館で西洋式の舞踏会を開催していました。参加している人々の足もとは、男性も女性も皆靴下と靴でした。
当時、お米1升が3銭なのに対し、靴下は1足なんと10銭!!この頃、靴下がとても高価なものだったということがわかります。舞踏会に参加できる役人や軍人、裕福なご婦人しか手に入らなかったようです。

明治初期の靴下って、どんなもの??

今の靴下は明治初期の靴下より、格段の進化をとげています。
では、どこが進化したのでしょうか?
まず、当時の靴下は踵がありませんでした。単なる先の閉じた筒を想像してもらえば良いと思います。そのために、靴の中で非常にずれたと思われます。
その上、糸を作る技術がまだまだ発展途中で、ナイロンなどに代表される合成繊維もまだ生まれていなかったため、強度的に弱く、すぐに穴が開きました。
ゴムなどの伸縮性の繊維も使用されていなかったため、フィット感も大変悪かったと思われます。
当時の靴下は、まだまだ改良の余地があるものでした。

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